昭和42年9月22日 朝の御理解       

 御理解第6節に、目には見えぬが、神の中をわけて通りおるようなものぞ、と。畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中である、と。目には見えぬが、神の中をわけて通りおるようなものじゃ、と。それは、畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中をわけて通りおるようなものじゃ、と。天地金乃神の広前は世界中であるぞ、と。
 神様を信心させて頂いて、何を頂き、何を分かせて頂くかと言うと、只今頂きますようなところが、一切実感として感じれれるようになるために、信心のけいこをしておると言うても良いのです。私どもが日々、神の中をわけて通りおるような実感。そういう実感の中に生活させてもらう。そこには、神様を見るように、聞くように感じる。そこに、この、私は、この有り難い生活があると思う。
 その有り難いという生活というか、有り難いという、その心におかげがあるのでございますから。どうでも一つ、そういう実感として伝わってくるように、神様の広前は世界中である、と。どこへおろうが、どこへ自分があろうが、どこで何をしておろうが、神の中をわけて通りおるようなものであるということをですね、本当に分からせてもらうようにならなければいけない。
 それは、話を聞けば分かるんですけどね。世界中が、なるほど神様のお広前であるということが。なるほどもう、すべてのことが、神様のお働きであることがわかってるんですけれども、いや、話を聞けば分かるんですけれども、それが実感として伝わって来ないところにです、人が見ておることに説くところと、人が見てないと思うとです、ね、私どもは、実に裏と表の生活。ね、裏表のある生活をしてしまう。本当に、心にそれがわかったらです、神様が見通しである、神様が聞き通しであるということを実感的に分からせて頂いたら、私どもの生活がもっともっと、立派な清らかな、有り難い、美しいものになって来るだろうと、こう思います。ね。
 神様は見てござるのだから、神様は聞いてござるのだから。ね。なるほど、神様のお広前は世界中であるということ。ね。それが、畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神様の中をいわゆる、ご免下さい、ご免下さいと言うてわけて通っておるようなものであるというような実感がですね、頂けるようになったら、有り難いことだと、こう思う。
 そこで、その、そういう実感を得られるために、そういうおかげの頂けれるために、信心の工夫が必要なのである。信心をさせて頂くものは、肉眼をおいて心眼を開けよと、こう仰る。信心させて頂く者は、その肉眼をおかなければいけません。そして、心の眼を開けば勝ち。
 そこでその、心眼を開くためには、まず、肉眼を置かなければならない。今日は、ここんところを皆さんに分かって頂きたいと思うのです。ね。心眼を開きたい心眼を開きたいとはいかん。その心眼を開くためには、まず、肉眼を置かなければいけません。ね。
 肉眼で見る世界、と。それは、こういう世界なのである。ね。いわゆる、人間心の世界であり、人間の考え方、人間の考え一つで生活をして行こうというのが、肉眼の世界である。いわゆる、自分の思いで生活をして行こうと言うのである。右に行きたいと思えば右、左に行きたいと思や左。ね。自分がしたい放題のことをする。それは、肉眼の生活、肉眼の世界だけにある訳でございます。ね。
 信心のない間は、それで良かった。ね。自分のよかごとすりゃ良かった。ところが、その自分のよいようなやりかた、生き方で幸せになれば、まだ良いのですけれども。それでは、幸せでないことが分かって来た。自分の物はのようなことでです、やって行って、それで幸せになれば、それでいいのですけれども、それでは幸せにならないことが、様々な一つの問題というか、難儀なことに直面して、初めて目が開ける。これは、人間の知恵力というものでは、人間の幸せというものはないのだ、と。
 例えば、目の前に今、横たわっておるところのこの難儀というものでも、さあ、自分の力ではどうにも出けないではないか、と分かる。ね。人間関係において、然りである。ね。生活して行く上に、ね、幸せに生活して行くためだけれども、さあ、人間関係一つが上手くいかんのである。自分の体一つが、自分の思うようにならんのであることが分かる。肉眼の時代は、もう、自分。健康である時に、もう、自分でわがよかごと、自分でわが良いことが出来ると思うておったけれども、さあ、実際に体が弱ってみると、自分の思いように自分の体一つが出来んことが分かって来る。ね。
 おかげにいよいよ不自由をしてみて、初めてです、これは、おかげを頂かなければ出来んちゅうことが分かって来る。働いて金が儲かる、働きすりゃ金は儲かる。なるほど、そう思うておったけれどもです、働けど働けど、わが心は楽にならざるというようなところを通ってみて初めてです、働いただけで良いというのではない事が分かってくる。ジッと自分の手を見てるだけじゃつまらん。そこに、ジッと自分の心の上を眺めて見るということになって来るのである。
 そして、今までの生き方、今までの在り方では、人間幸せになれないのだというところに、神様にすがろうか、参ろうか、一つ拝んで頂こうかというようなことにもなって来るのである。ね。そして、分からせて頂くこと。ね。私どもの幸せというのは、いわば、天地の親神様のおかげを十分に頂かせてもらわなければ。神様のおかげを頂かなければ、人間の幸せがないというようなことが、お話の上で、理屈の上でも分かって来るようになるけれども、なら、自分の心の底から実感として、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというようなことが分からん。ね。水一掬いだってそうです。一粒の米だって、そうなんです。
 神様のお許しを頂き、神様のおかげを頂かなければ、出来んことが分かる。ね。ところが、なかなか分からん。そして、ここで分からせて頂かなければならんことはです、心眼を開かせて頂いたら、すべてが神様の姿に、全てが神の声に聞こえてくる。ね。全てが神様のお働きであるということ。全てが、神様の働きの中に、私どもがあるということが分かって来る。ね。
 神はわが本体の親ぞ、と。信心は親に孝行するも同じことぞや、というような御教えがです、本当に、この自分の実感として頂けてくるようになる。どうでしょうかね、例えば、様々な、例えば、私のことを悪口を言うた人があるといたしましょうか。肉眼の時代には、俺がお前から、どうして悪口を言われんなんか。お前は俺の悪口を言うたげなね、と言うて、それこそ喧嘩でも仕掛けたいごとあることになって来るんですよ。お前は蔭で、俺ことを悪口を言うたげなねと、それを詮索したい心がある時代が、肉眼の世界です。
 ところがです、心の眼を頂かせてもらう、心の眼が開けて来るとです、例え悪口を目の前で見ろうが聞こうが、それを、その人が言うておるのではない、その人の向こうに神様の働きがあることが分かる。その人を使うて、神様は、いわゆる、実を言うなら神の声なのである、神の姿なのであるということ。ね。
 そこで、まあ、私は腹立ちもなからなければ、お参りをしてということはない。自分のことを一生懸命悪口言いよりなさるが、あの人が言いよんなさると思うと腹が立つけれども、あれが神様の声であるとするならば、腹の立つ段じゃない、お礼を申し上げなければならないことが分かって来る。
 そういう世界に住むということが、私は有り難いと思うんですよ。ね。いわゆる、段々、神の広前は世界中であるぞ、というようなことが分かって来るです、実感。ね。そこで、私どもがですね、いわゆる、その、肉眼をおかなければいけない。肉眼をおいて、心眼を開けよと仰るから、肉眼をおかなければいけない。肉眼で見ることを止めなければいけない。肉の耳で聞くことを止めなければいけない。いっぺんつんぼになって見なけりゃいけん、一遍、めくらになって見なければいけないというところにです、私は、はあ、とても信心するモンの、その、あげな不自由な生活は出けん。
 とても、信心する者のような真似は出けん、というようなことにもなって来るのじゃないでしょうかね。なるほど、一時は非常に不自由に見えるわけですよ、肉眼を、めくらになったつもりですから。ね。聞こえないつもり、聞こえないんですから。だから、耳をふさいでおる。いわゆる、見ざる、言わない、聞かないといったような生活が始まってくるわけなんです。
 だから、今までに見えておったのが見えるようになり、今まで聞こえておったのが聞こえるようになるもんですから、言うことも無くなってくるから、実に不自由なんです。今まではわがよかごつ言いよった。(   )いうようなことを平気で言うておったのをです、言わんで済むじゃない、言わんけいこをするんですから。ここまで、ぐうぐう言いよってもです、ね、それを、金光様、金光様、金光様で、その言わんけいこをさせてもらう。どういうことが聞こえて来てもです、それを、先ず聞かんけいこをするんです。
 人が悪口を言うのを、それを自分で聞きない気になる。ね。それこそ、目に余るようなことを自分の周辺に沢山あるけれども、ね、子供、言うことを聞かん姿がある。ね。家内の足元が見える、主人の生き方が間違っておる。そういうようなものが、目の前に今までちらつきよったのがです、目をつぶると分からんでしょうが、子供が何をしよろうが、主人が何をしよろうが。ね。ですからですね、信心させて頂く者は、その、肉眼を置くということはね、肉眼を置いてということは、いっぺん見ざる言わざる聞かざるになって行くことなんです。ね。
 そして、どういう事になるかと言うと、その思いの丈を神様が持ってくるのです。思い切であれば切であるほどに、それをこちらの人間の方へ持って行かずに、神様の方へ持って行くんです。神様、おかげ頂かせて下さい、助けて下さい。ね。
 そこからです、神に手を引かれる世界が始まるのです。それは、ちょうど、急に目を失った人がです、やはり、杖をつかなければならないようなものなんです。ね。杖を頼りに歩かせてもらう。杖を頼りに生活させて頂く。神様を頼りに生活させてもらうということは、そういう事なんです。それを、またの言葉で言うと、神様任せの生活ということになって来るのです。ですから、神様任せということは、いかにも楽なようであるけれども、実を言うたら非常に、いわゆる肉眼の世界から心眼の世界に入るための、一つの過程として窮屈なことであります。ね。肉眼を、まず置くというだけでも、やはり不自由なんです。
 そして、杖を頼りに歩くのですから、実にボトボトとして不自由な訳でございますけれども。さあ、そこんところが有り難い。なるほど、これはこれは、自分でいい加減なところに行ったり、思うようなことをするよりも、神様に手を引かれて、神様の教えの通りに、神様任せになった方が、こういう楽な有り難い世界が開けて来ることが分かって来るんです。
 自分の感情じゃない、自分の思いじゃない。ね。肉眼を置くとは、そういうことだと私は思うんです。だから、肉眼を置くということは、だから、まあ、考え方では窮屈なように見えますけれども。ね。いや、実に、また窮屈なんですけれども。その窮屈なとこを通らせて頂いておるとです、いわゆる、本当な意味合いにおいての心眼が開けて来るのです。ね。
 心の眼が開けて来たら、有り難い。それを、まあ、徳の世界と言うかも知れません。いわゆる、全てが神の声に聞こえ、すべてが神の姿に見えて来るようになって。ね。いわゆる、段々、杖を頼りにしよったのが、もう、杖もいらんぐらになってくる、いわゆる、感が強うなってくるのです。いわゆる、霊感強うなってくるのです。その霊感というのはです、人間の誰しにもあるのです、あるはずなんです。例えて言うならばです、ね、冷血動物である蛇とか蛙ですらが、その感があるのですから。人間にないはずがない。
 それが、自分の我情我欲のために、人間の、なら、見たり聞いたりというだけの生活をするから、その霊感というものが、段々、よぼれたり、無くなって行くかのように、霊感というものが、感が無くなってしまうのです。ね。大水の入る前には、蛇なんか高い所に上がると言うでしょう。
 はあ、これは蛇が高上がりしよるけん、大水があるじゃろ、人間よりか先に知っておる。あれは、冷血動物の蛇にでも、その感があるからです。ね。まして、人間は万物の霊長と言われるのですから、霊長と言われるくらいだから、霊感がないはずがない。その感が的確になって来ることを、お徳を受けると言うのである。ね。それよりも、先ず、私どもが今申しますように、肉眼をおかなければいけない。信心する者は肉眼を置いて、心眼を開け。その肉眼を置くということを、私は、今日は神様任せになることだと、こう申します。神を杖についての生き方になる、と。そこは、不自由になるように思いますけれども、神様任せになった方が、このようなおかげが受けられるということが分かって来る。自分の思いを捨て切るのである。そこに、神様のお働きのまにまに、私どもが動かせてもらう。はじめの間は不自由のようにあるけれども、段々、感が強うなって来る、霊感が、見がきがされて来るようになるとです。
 北野の江口に日吉さんていう方がおられましょうが、目の見えない人が。以前はここへ参ってみえとったんですけど、ね。あの人の話を聞きますと、あの、ここに古賀さんていうおばあちゃんがおられましたね、いつも。信心話とかしよると、もう、晩が遅うなってしまう。江口という所には、こう、この、何ですか、川がこうついて、小川があったり、橋があったりするんですよね。
 そすと、その、(  )の日吉さんが古賀のおばあさんに言われる。もう、この遅かけんで、こげなくらすみじゃから、アンタが怪我どんしちゃならんち送ってくるち、めくらさんが送って行きますもん。
 もう、目明きどんが勝つこっじゃなか。ね。いわゆる、感が強いからです、感が強うなっておられるからです。ああ、そこは危なかばの、危なかばのち言わんでん、ちゃんと、知っておる。
 (・・・・・・・・?)、もう、さっさと、こう行きなさる。信心させて頂いて、お徳を受けた人のお姿と同じことなんです。肉眼をおいて心眼を開かせてもらう世界には、もう、自由無碍な世界がある。ね。昼でなからなければっちゅうことはない。昼でも夜でも、いつでもどこでも、おかげを頂けれる世界が開けて来る。それを、お徳の世界、と。
 いわゆる、肉眼をおいて心眼を開かせて頂いた世界が、そこにあるのです。信心をさせてもらえや、やっぱお参りもせんならん。ね。お賽銭もあげにゃならん。なるほど、それが、いくら、なるほど不自由のようにもあるけれども、また、自分が右に行こうと思いよっても、先生が、左がよかぞと仰りゃあ、右がよかと思うけれども、自分の思うとるように出来ないような場合もあるけれども、それが方がおかげであることが分かって来るようになるから、信心が止められなくなってくる。そして、自分の心の中から段々、肉眼をおいて心眼を開かせて頂けれることの楽しみが生まれて来る。ね。
 肉眼をおいて心眼を開かせて頂く。私どもは、神の中をわけて通りおるようなもの。それは、畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中をわけて通っておるようなもんであるけれども、それがわからない。分からないから、わがまま勝手なことを言うておる人が平気でする。
 それで、幸せになって行く事が、あるはずがない。ね。私どもは、本当に神様の中を分けて通っておるような実感が頂けれるためにもです、どうでも一つ、肉眼をおいて心眼を開かなければならない。心眼を開かせて頂くためには、私が今申しましたようなです、生き方、在り方にならせてもらい、信心のけいこの焦点をそこに置いて行かなければならない。そして、神様任せの、本当に心安い生活が、まず、始められなければいけない。そげな事があるもんかち、そげんやって、子供が分かったと言うて、自分の生き方で押して押した生活から、神様任せに生活をして行こうという生活に入って行かなければならん。
 そこから、段々、神を杖についておった、その杖も必要になくなってきて、ね。自由自在なおかげの立てれる世界が展開して来る、開かれて来るのです。ね。そういう、私は信心を、お互い目指させてもらわなければいけん。信心の稽古というのは、そういうことを分からせてもらい、そういうことを行じて行くことが、信心のけいこだと思うんですね。どうぞ。